トラウマ概念の再考(2)

前回は、無力な子どもが自分でコントロールできない、また逃れることもできない不快な、また脅威を与えるような状況に適応するために、そうした不快感や脅威を与える人に100%同一化することによって対処し続けた場合、短期的にはそれは適応行為ですが、長期的にみると大きな代償を支払わなくてはいけないということを述べました。

今日は、そうした支払わなくてはいけない大きな代償にはどのようなものがあるのかを自験事例を通して見ていきたいと思います。

まずは、自分がなくなってしまう(無自己)ということを取り上げたいと思います。

私が臨床の場で出会ったA子さんは、25歳で結婚するまで、母親を一番偉い人だと思い、母親のいうことを文字通り100%聞いて生きてきました。母親の言うことを間違いなく聞いてその通りにしていたら母親は機嫌が良かったといいます。母親と違う主張は絶対できなかったといいます。

生き残るためにこのような生き方をせざるをえないことが、S.フェレンツィはトラウマ体験であると考えるわけです。

その結果、A子さんは、自分一人では何も決めることができなくなってしまいました。引っ越した後もどこに物を配置してよいかわからず手つかずのままですし、誕生日のケーキ一つ選ぶにも,自分はこれが好きだ、これがほしいということがないので決めることができず一日がかりですし、年賀状の印刷を決めるにも一日がかりという状態でした。

昔から、洋服一枚買うにも何度も出直し、買った後も必ず返品か交換をしてきたといいます。自分がないのでほめられると舞い上がり、けなされるとひどく傷つき、自分はもうだめだと思い、死のうと思ってしまったといいます。

また幼い頃から何かあると死にたいと思い、また新しい状況では、自分がないためにいつも圧倒されてしまって、パニックになり死にたくなったといいます。

このように、幼少期から自分の思いを押し殺して100%親の意思を生きてしまうことが、子どもにいかに大きな代償を支払わせることになるかが分かると思います。